wikipedia【最新版】 邪馬台国は奄美諸島(徳之島)説 [決定版]


wikipedia【最新版】 邪馬台国奄美諸島(徳之島)説  [決定版]

邪馬台国徳之島では、徳之島の伊仙町を中心とした奄美一帯の徳之島 邪馬壹国説が益田宗児著[20]陶芸家の中武久が天城町の「犬の門蓋眼鏡岩」遺跡 中武久著『徳之島にあった古代王国―邪馬台国の実像』[単行本] 文芸社2002年 伊仙町観光協会会長の伊信貴、それに民俗学の小泉芳孝[21]も魏志倭人伝や中国の史書に記す方位から「太平洋上の大海に浮かぶ島」と共通した意見で徳之島説を述べておられる。

1. それらによると魏志倭人伝に記す卑弥呼邪馬台国は、帯方郡(ソウル)から東南に直線距離で女王國まで12,000余里にあり、中国のニンポー(寧波)から真東に交わる大海にあるとされている。益田宗児は、九州王朝説を唱えた古田武彦よりも遥か南方の「太平洋上の大海に浮かぶ島」にあるとする徳之島説をとっている。つまり、伊都国の唐津からほぼ南へと魏志倭人伝に記述している南方方角であるとしている。また、陶芸家の中武久は、天城町の「犬の門蓋眼鏡岩」遺跡をギリシャパルテノン神殿の石造を卑弥呼の城や塚として中国殷王の陵墓を例に出して述べている。[22]一方、伊仙町観光協会の会長伊信貴それに民俗学の小泉芳孝は、魏志倭人伝や中国の史書に記す方位から「太平洋上の大海に浮かぶ島」として徳之島の面縄が卑弥呼の宮殿にふさわしい遺跡や地勢になっていると述べておられる。さらに民俗学の小泉芳孝は、方位以外に邪馬台国と対立した狗奴国を沖縄(琉球)の勢力と比定し徳之島伊仙町の紀念海岸に来た除福が400年後に邪馬台国を樹立したのではという説を述べている。[23]。

2. 魏志倭人伝中で邪馬台国の埋葬方法を記述した『有棺無槨』を土葬墓と見なす見解に基づけば、奄美地方一帯の徳之島に土葬墓が多数出土し数年後に掘り起こして海の水で骨を洗って追葬している。当時の徳之島地方は一般的に風葬という埋葬方法とされているが間違っている。これらから日本人本来の古代から続いている土葬墓が続いていて古くから巳の方角に葬る「巳葬」の風習がある。現在、伊仙町の歴史民俗資料館に展示保存されている弥生時代のシャーマンとされている「面縄第1貝塚の洞穴から埋葬された完全な形の人骨が巳葬で埋葬されていて弥生時代中期である[24]ことから「邪馬台国卑弥呼」ではないかと見られている。

3. 卑弥呼以降の邪馬台国は、卑弥呼の女王から男王に変わったあと、トヨが政権を取り治まったとされている。その後の歴史については何処にも記されていないので判明しないが、おそらく南西諸島を北上して九州から畿内へ行きニギハヤヒノミコト物部氏が最初に奈良に来て、その後に神武天皇あたりが東遷し畿内を制圧したと見られるのである。九州からの東遷説は神武東征をその事実の反映と見られることから、『隋書』の記述が現存する記紀神話とつながり『古事記』・『日本書紀』への神話を根拠とする実在説でまとまる。

4. 小さな島で一般に古代の歴史が存在しないとされる徳之島では、邪馬台国が7万余戸とあるのは「多すぎるのではないか」と多くの人達に指摘されている。しかし、魏志倭人伝の記述から 奴国2万余戸、投馬国5万余戸邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が唐津からほぼ南方に記されているのを前提にして。秦の始皇帝が除福に命じて不老不死の薬を捜しに蓬莱山など三山を目指して工人や童男童女ら3000人を数十隻の船に載せてきたのは、中国で古くから貨幣として使われていた子安貝の交流がある南西諸島にあり、それらを知っていた除福が目指したのであり、その400年後に邪馬台国が7万余戸になっても蓬莱竹のある不老不死の蓬莱山である徳之島なら決して可笑しくない。伊信貴と小泉芳孝は、アガレン山のガジュマルの木が生えていて古墳と見られる所に、家型石箱に納めらた除福像が保存されていることから、除服が徳之島に移住し400年間にわたり地元民との混血によって集落が営まれたのであり「7万余戸卑弥呼邪馬台国が誕生したとしても不思議ではない」と述べられている。一方、伊仙町観光協会によって近年科学的に「老化防止の効果がある」と証明され、徳之島全体に存在する不老不死の老化防止効果の石清水が豊富にあることから、除福一行の100人の工人らによる稲作栽培等で邪馬台国7万余戸の人達の食をまかなうこともできたであろう。

5. 徳之島周辺を眺めれば古代遺跡から大量に採取されている「子安貝」が、中国の殷王朝時代から貨幣として使われていた事実があり相当古くから水先案内人らによる中国との交流があったと考えられる。ゆえに、秦の始皇帝が除福に命じ不老不死の薬を捜しに蓬莱山など三山を目指して100人の工人や2000人の童男童女らを船に載せ最初に日本を目指したのも蓬莱竹のある蓬莱山(徳之島の3岳)であったのである。たた単に不老不死の薬を探しに行くのに2000人の童男童女は必要ないのである。故に、除福は、秦の始皇帝に除福村が滅ぼされると察知して一家もろとも日本への移住を目指したと考えられるのである。現在、徳之島の数カ所にある岩石に刻まれた線刻画には、船やヤジリ、大魚、それに「山」の文字などがあり、大陸から渡ってきた工人らにより刻まれた物と見られている。[25]。  徳之島は、ギネスブックに載った世界最長老の泉重千代さんがいて老化防止の水(科学的に証明されている。)[26]。がある所から不老不死の島「徳之島」は、除福が目指した不死の薬がある蓬莱山であり除福が目指した理想郷へ移住して来た為に再び祖国の中国へ帰らなかったのであろう。[27]。

6. 現在までに徳之島では、3世紀の紀年銅鏡は見つかっていないが天城町に松原銅山跡が現存しており今後発掘が行われれば、関連した何かが出てくるかも知れない。森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがい「三角縁神獣鏡ヤマト王権邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を述べておられる。故に、銅鏡による邪馬台国論説の整合性を述べるのには、まだまだ時間を要するであろう。

7. 一方、九州説の「放射線式」読み方が正当化されても「水行10日 陸行1月」からは、どうしても九州を遥かに越えて南下してしまう。徳之島へは多くの南西諸島の島々を船に乗っては島に上陸して歩いたり、又、船に乗っては島に上陸して南下していけば良いのであるから「水行10日 陸行1月」を見ておかねばならず、邪馬台国徳之島の位置は自ずと徳之島辺りに位置していると言えよう。[28] 。天城町の天城岳の麓にある松原神社は、かつて遣唐使船が水を供給する為に立ち寄ったという航海安全の守り神とされていて、南西諸島から中国へ行く南海航路が存在していた。[29]。

8. 邪馬台国魏志倭人伝に記載された吉野ヶ里遺跡は、銅鐸や銅鐸の鋳型が出土ししていて邪馬台国より強大な国があったとしても、時代が弥生時代であることからシャーマンという卑弥呼がいて「国が治まった」とされている。これらから九州に邪馬台国がなくても良いと言えよう。徳之島には、古くからユタ[30]やノロと言われる松原神社の斎主(シャーマン)松堂久邇がいて現在も現存している。[31]。 この他、魏志倭人伝に記す「入れ墨」をして「裸足」で歩いていた人達がいて最近まで存在していたようで卑弥呼邪馬台国にふさわしい証拠が他にも多数存在している。[32]。[33]。 

1.^ 森浩一『倭人伝を読みなおす』筑摩書房、p.29。ISBN 978-4480065582
2.^ 『三国志』魏書東夷伝序文
3.^ ただし、『三国志』には「臺獄」という表記や死体を積み上げた塚を「臺」としている例があることから、これに反対する説もある。
4.^ 汪向栄『中国の研究者のみた邪馬台国』同成社、p.213。ISBN 978-4886214096
5.^ 岡本健一邪馬台国論争』(講談社選書メチエ、1995年)p89に引く岡田英弘の説
6.^ 「新邪馬台国論―女王の鬼道と征服戦争―」『歴史における政治と民衆』1986年、「親魏倭王印とその歴史的背景」『日本印章史の研究』雄山閣、2004年)。
7.^ 石野 博信『大和・纒向遺跡』、邪馬台国の候補地・纒向遺跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」) 、田原本町教育委員会『唐古・鍵遺跡の考古学』
8.^ 毎日新聞連載「深読み日本史 邪馬台国邪馬台国論争・畿内説と九州説のそれぞれの意味邪馬台国時代の列島事情
9.^ “「九州説は無理…」新井白石以来の邪馬台国論争ゴール近し 纒向遺跡”. 産経新聞. (2009年11月11日) 2009年11月11日閲覧。
10.^ ただし、年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていないためである。放射性炭素年代測定法にしても、測定資料をとることは遺物を損傷することでもあり機材も必要なので追試検証は行われないとの指摘もある。
11.^ 「邪馬台国の方位について」(『オリエンタリカ』1、1948年8月)
12.^ 『「邪馬台国」はなかった』
13.^ 現代では古田武彦などによる九州王朝説がある(日本列島を代表する王朝は一貫して九州にあり、白村江の戦い以降に衰亡したとする説。一部を除いて学術論文として発表された説ではなく、学会では議論の対象とされていない。)。
14.^ 新しい年代観に懐疑的な研究者もいる。年輪年代学では原理的に遺跡の年代の上限しか決定できない上に、まだ専門家の数が少なく、日本の標準年輪曲線は一つの研究グループによって作成され、正確データの公表すらなされておらず追試検証が行われていないためである。放射性炭素年代測定法にしても、測定資料をとることは遺物を損傷することでもあり機材も必要なので追試検証は行われない。
15.^ 大正9年『日本古代文化』
16.^ 若井敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館 ,2010年,7頁
17.^ 「大いなる邪馬台国」ほか
18.^ 若井敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館 ,2010年
19.^ 若井敏明『邪馬台国の滅亡 大和王権の征服戦争』吉川弘文館 ,2010年,7-12頁
20.^ 益田宗児『夢に見た邪馬台国は徳之島』で徳之島興産(株)2000年9月27日
21.^ 邪馬台国は「徳之島」だった http://taketori.koiyk.com/yama-tokunoshima.html
22.^ 中武久著『徳之島にあった古代王国―邪馬台国の実像』[単行本] 文芸社2002年
23.^ 邪馬台国は「徳之島」だった http://taketori.koiyk.com/yama-tokunoshima.html
24.^  『図示図録と解説』執筆者 義憲和 伊仙町歴史民俗資料館発行 2000年
25.^ 『伊仙町誌』伊仙町誌編さん委員会編 伊仙町 1978年 
26.^ 伊仙町観光協会の会長伊信貴
27.^ 益田宗児・三好誠著『除福物語 改訂版』奈良除福研究所発行2008年
28.^ 益田宗児『夢に見た邪馬台国は徳之島』で徳之島興産(株)2000年
29.^ 徳之島の情報誌『よーりよーり』まじゅんワークス発行2012年
30.^ 「西村仁美」著『「ユタ」の黄金言葉』東邦出版2007年ISBN-13: 978-4809406652
31.^ 松堂久邇著『神女(シャーマン)誕生』徳之島に生まれたノロ フォレスト出版、2002年
32.^ 『伊仙町誌』伊仙町誌編さん委員会編 伊仙町 1978年
33.^ 徐福の蓬莱山「徳之島」は、400年後「邪馬台国」となった http://taketori.koiyk.com/yama-horaisan.html