京田辺ゆかりの人物『神功皇后』の「説明板」と「鉾立ての杉」無くなる。20104.9.1

京田辺ゆかりの人物『神功皇后』の「説明板」と「鉾立ての杉」無くなる。20104.9.1
     http://blog.goo.ne.jp/dontuki23/e/613bca2c143b899203b81e15f12b4fb7
 京田辺市内のJR同志社駅前「鉾立ての杉」が、現在バッサリ切られ、案内板もなくなり、ポツンと一つ道の片隅に申し訳なさそうに石碑が建っているだけという事を今日知りました。地元の方によると、京阪奈学術都市の第1クラスター地域が成すこととは思いたくないと、機会あるごとに市民の方々にお話してこられたようです。

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 鉾立て松と杉、それに不違の池は、神功皇后三韓征伐(任那救済)を行った4世紀後半のエピソード(百済記)です。
神功皇后は、不違の池で身支度を整え、髪を洗い、みづらに結い、男子の装いをして船出した。(古事記日本書紀)  三韓征伐の行き帰りに不違の池(京田辺市興戸若宮、八幡木津線沿い)を通ったときの隊列を現している。そして、帰りも必ず通ると約束。池の側には、皇后が腰掛けたとされる「御床の石(通称とこいし)」が不違の池の北側に今もあり、遠征の酒盛りをしたときの盃の跡が、5、6ほど残っているという。その時の戦隊行列は、鉾立て杉(南鉾立、JR同志社駅前)から松(北鉾立)まで続いたと言われる杉と松である。本来は両方共に松だったと言われていますが。
いにしえの時代から言い伝えられてきた地域の先人たちの郷土愛と誇り、そしてその心をつなぐ役割と責任を行政や市民はもっと大切にする必要があると思います。この他にも普賢寺にある近衛さんの入口に建てられていた看板も無くなっていると言うことです。これは大問題です。京田辺市郷土史会は、何の活動をしておられるのでしょうか。歴史をしっかり伝えない京田辺市は、滅びることになるでしょうね。

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